2013/07/24

原発被災地訪問の記録

日本出張中、以前働いていた会社が主催する、震災復興・社内ボランティアプログラムにOGとして参加させて頂き、津波被災にあった宮城の名取市と福島の相馬市、そして原発被災地である南相馬市、浪江町を訪問しました。

その様子を共有したいと思います。

ゆりあげ港朝市


仙台駅近くのホテルからバスに乗り、最初に訪れたのは、宮城県名取市閖上のゆりあげ港朝市
津波被災で漁港はすべて流されましたが、30年前から続く朝市を復興させようと、今年から仮設店舗で再開。
魚介類から練り物、乾物、肉や中華料理まで、幅広いジャンルの食品を揃えており、市場内は大混雑。既に近隣住民の週末朝の定番となっている様子。
購入した採れたての魚介類をその場で炭火で焼いて食べられるコーナーもあり、楽しめます。

この地域では、高台に住みたいという住民の希望により、数メートルの盛り土をしてその上に家屋を建てる計画が進行しているそうですが、町全体を高台にするのにいったい何年かかるのか、盛り土した地盤の強度に問題はないのか、詳細は確定しないまま。
阪神大震災後に急いで建てられた住居が、住みにくさゆえ現在なかなか借り手がつかないそうで、その教訓を活かし、たとえ一年遅れても、綿密な計画の後に開発に着手すべきではとのご意見も。


報徳庵の試作品、塩麹タコ

続いて、相馬市へ。
地元の方においしい食事を提供するために朝市を開催、仮設住宅居住者に食料を販売することで高齢者の安否確認をできる仕組みを確立、仮設店舗で食堂「報徳庵」を経営しボランティアの交流の場を提供するなど、復興に向けて活動なさっている、はらがま朝市クラブの高橋理事にお話を伺いました。

高橋さんが住む原釜漁港周辺は、津波被害により多くの住居・工場が流された地域。
ご自身含め、依然多くの方が仮設住宅にお住まいだそう。

この地域での一番の問題は、支援金の使途。
国の支援金は一次産業に手厚く、漁業従事者には十分な補償がされたものの、二次産業である加工業者には十分な支援が行き渡らず、住民間で不公平感が広がっているとのこと。
漁業は遠方漁のみ試験操業が開始されたそうですが、獲った魚は販売できず、本格再開の目処は全く立っていないにもかかわらず、海岸沿いには数億円かけて建てられたという立派な漁業倉庫が。
住民にとって本当に今必要な新事業よりも、元通りにするための予算の方が通りやすいのだそう。

地元産の魚や作物の安否に関する意見は、地元住民の間でも二分。
復興支援で購入してもらいたいと考える方と、他県・他国産の魚や作物を輸入し加工販売することで地元産業を復興させようとする方とで、意見が割れているようでした。
同行されたコーディネータさんによると、都市部から来る方々が地元産品に対する強い意見をぶつけるため、地元の方は苦しんでいる様子。
私自身、訪問前は、原発周辺の作物は販売しない方が良いのではと思っていましたが、地元の方の考えを聞き、外部の人間が勝手な判断で意見を主張すべきではないように感じました。
地元産品を購入するもしないも各人次第。人に主張を押し付けるのではなく、それぞれが各自の考えの下に行動すればいい。それだけのことなのかもしれません。

そして、もうひとつの問題は、住民の士気。
もともと高齢者が多い地域であったものの、津波被災により都市に出て行った若者が帰る場所を失い、残された住民は被災による心労から働く意欲を失い、支払われた支援金で残りの人生を全うしようと考える人も少なくないのだそう。
働く意欲をなくした人間がいかに脆いかを、高橋さんは強く訴えていました。

若松味噌醤油店の味噌蔵

続いて、南相馬市に入り、創業150年の天然無添加手作りの田舎味噌蔵「若松味噌醤油店」を継いだ、若き10代目若松真哉さんを訪ねました。
同店の味噌は、大豆と米麹と塩のみを使い、一年以上熟成させるという、昔ながらの製法で作った田舎味噌。
この製法で麹を多く入れて作ると、ダシを入れずに味噌汁を作れるのだそう。
東京に戻ってから、購入した味噌でダシなし味噌汁を作ってみると、本当においしい味噌汁ができ、驚きました。
私はアメリカでは可能な限りオーガニック食品を食べているのですが、味噌汁はどうしてもダシがネックになってしまいます(ダシとなる魚介・海草類はオーガニックになりえないため)。
しかし、ホンモノの味噌を使えばダシ不要のオーガニック味噌汁ができることがわかり、「オーガニック味噌」と"ホンモノの味噌"との違いを考えさせられました。

若松さんは、話し方や立ち振る舞いから、実直さがにじみ出ている方。
同店の売上は、震災後に6割に落ち込んだそうですが、細心の注意を払って製造し、放射性物質の検査を続けるなど積極的に情報公開したため、現在は震災前の8割ほどに戻ったそう。
被災前は地元産の大豆を使っていたそうですが、現在は他県産を使用しているとのこと。
若松さん自身は、地元産作物に対する意見を明言されなかったものの、苦悩のほどが窺えました。

中央にうっすら白く見えるのが、原発建屋

そして、いよいよ制限区域へ。
原発から20㎞圏内に入ると、急に人の気配がなくなり、荒れた野原に津波で流され放置された車や舟が転がる不思議な光景が広がりました。
バスの中は、途端に重苦しい雰囲気になり、緊張感が漂い始めました。
浪江町の看板が見え、マスクをした係員が大勢立ち並ぶ「帰還困難区域」の検問所に着くと、言いようのない恐怖を感じました。

一旦その場は引き返し、別の小さな検問所から区域内に入り、原発から6㎞辺りの地点でバスの外に出ました。
人っ子一人いない荒地に崩れた家屋や瓦礫が点在し、その奥に建屋を目視できました。
ここでの放射線量は意外にも低く、福島市と変わらない0.12マイクロシーベルト(東京は0.05程度)。
得体の知れない化け物に囲まれているような不気味さは依然感じるものの、不思議と恐怖感はなくなり、ただ事実を事実として受け入れるような、腹をくくったような気持ちになりました。

再びバスに乗り込み、浪江町の住宅街の方に。
なんだかカラスが多いなと思っていると、大通りから細い小道に曲がったところにある一軒の大型店舗に、大量のカラスの群れが。
バスの中では、「うわっ」という驚きと恐怖が入り混じったような声が上がり、その後皆無言になりました。
バスで一瞬通り過ぎただけで、その店の中、あるいは外に何があるのかはわかりませんでしたが、ヒッチコックの「鳥」さながらの光景に背筋が凍り、見てはいけないものを見てしまったような不穏な気持ちになりました。

2年前のままの状態で放置された、浪江町の住宅街

細い道を走り、住宅街へ。
道路脇に住居や店が立ち並ぶ、よくある普通の住宅街。
今にも子供たちや店主の声が聞こえてきそうな雰囲気なのに、人も動物も何もいないという異様な景色。
その中で、規則的に点滅し続ける信号と、時折空を横切るカラスやスズメらしき小さな鳥が、その異様さを際立たせていました。
立ち並ぶ家屋の中に、ポツポツと見える倒壊した家屋は、津波ではなく地震によるもの。
町ごと流されてしまった津波被災地のような凄惨さがない分、かえって不気味な様相を呈していました。

住宅街を抜けて浪江駅に到着し、バスを降りると、ガイガーカウンターの数値がぐんぐん上がり、0.7マイクロシーベルトに。
コーディネータさんのお話では、震災と水素爆発時に吹いていた風向きによって、同じ町内でも場所によって線量が変わるということでした。
現在立ち入りが規制されている大熊町、双葉町、浪江町は、原発の北西に位置しています。
これらの町の線量が高い(=避難区域に指定されている)のは、当時たまたま北西の風が吹いていたからだそう。
たったそれだけの理由で、慣れ親しんだ家や地域を手放さなくてはならないこと、さぞかし無念だろうと思います。
このとき、カウンターの数値が上がり続けても、不思議と恐怖感はなく、ただ、どこまで上がるんだろうと冷静な気持ちで見ている自分がいました。
ここに来る前は、制限区域の住民がそこに戻りたいと思う気持ちを理解できませんでしたが、この時初めて、住民の方のお気持ちを少し理解できたような気がしました。

再び検問所に戻り、スクリーニングと呼ばれる汚染度検査をして頂きました。
頭の先から足の裏まで、ガイガーカウンターのような器具をかざし、体表面の汚染度を検査しました。
参加者の誰からも、「汚染」は検出されませんでした。
この作業を行っているのは、地元の方だそうです。
いったいいつまでこの作業を続けることになるのか。
コーディネータさんは「これも雇用の創出になっている」と仰っていましたが、雇用という言葉で片付けるには、あまりにやるせない光景でした。

そして、福島駅から新幹線で東京へ。
東京に戻ると、自民党圧勝のニュースが。
いったい、この国はどこへ向かおうとしているのか。

私は年に一度一ヶ月ほど日本に帰国しているのですが、今年帰ってきて一番驚いたのは、震災のことを誰も気にかけなくなっていることでした。
外から見ている私にとって、東京辺りまでは被災地という認識でした。
昨年は、反原発デモが行われていましたし、友人・知人に会うと大抵震災の話になりました。
ところが今年は、原発再稼動や吉田所長死去のニュースが流れても、全く話題にならない。
その話題にはもう触れてはいけないような雰囲気さえ漂っていたことに、唖然としました。

311は、日本国民にとって、絶対に風化させてはならない出来事だと思います。
そのために、自分の目で現実を見ることは大切だと思います。
内臓がギュッと収縮するような現場の威圧感は、メディアの映像画像からは感じ取ることはできません。
それを感じなければ、この事故は、過去のこと、遠い地のこととして忘れ去られてしまうような気がします。

最近は旅行会社がこのような被災地ツアーを行っているそうです。
できるだけ多くの方に、自分の目で見、感じ、次の世代に恥じない選択をして欲しいと思います。

若松醤油味噌店:http://wakamatsu-miso.jp/
はらがま朝市クラブ:http://www.ab.auone-net.jp/~haragama/
報徳庵:http://hitosara.com/0006005229/

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